転載を許してちょんまげ
執筆者のサイトを明らかにした上で転載させていただきます。
お許しくださいませ。
とても共感したのです。この方の意見に自分の考え方を付け加えるなら・・・
自分は、自分を自分で支えるため、生きるために吐き出さなくてはならないモヤモヤとしたものがあり、それがメロディやリズムとなって表現される。
たとえ多くの人に聴いてもらわなくても作品として仕上がった時、俺はけっこう満足できる。
かなりの自己満足家である。
この方の言うように「誰かに届け」という祈りの部分ももちろんあるが、
一方で、誰かに直接ぶつけてはいけない気持ちを自分の胸の中に収めてしまうために、必要な作業でもあるとも思う。
前置きが長くなりました。
以下の黄色い文字が転載部分。
そして、コピー元のサイトは次のとおりです。
http://ebetsu.seesaa.net/
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006年10月01日
「作品を作るということ。」
「作品を作る」ということはどういうことか?(そもそもこの「作品を作る」という言葉自体、書いていて「頭痛が痛い」のような居心地の悪さを感じるがまあ他に妥当な表現が思いつかないのでこれを読んでいる方には我慢していただくしかない。)
絵や写真をやっている者にとって作品を発表する場は、主に展覧会だ。
よく考えると展覧会とは恐ろしく非生産的な行為である。
この世に星の数ほど居る表現者の作品の殆どが一度だけ展示され消えていく。
見に来てくれた人に何を与えるか?
残酷なようだがおそらく殆どの場合、何も与えない。私たちがやっている
○×△○×△□○□ももちろん例外ではない。
ある程度のコスト(それは時間であったり制作費であったり)をかけ制作されたものの殆どが、無駄という現実。
全く希望のない話である。
ここまでは。
それならば何故、人は作品を作るのか?
一言で言えば「可能性があるから」であろう。
上に「おそらく殆どの場合、何も与えない」と書いたがそれは逆に言えば百万に一つくらい何かを与える可能性があるということだ。
私は、小学校の頃友達が書いて文集に載せた詩を覚えている。
私は、明け方までかかってやっとクリアしたゲームのエンディングが作り出した透明な空気感を覚えている。
私は、世間が「B級作品だ」と見向きもしない映画の中にあった、おそらくその作品でしか表現できないであろう雰囲気を覚えている。
私は、新人アーティスト発掘コンテストのようなラジオ番組で入賞した人の少しかすれた歌声を覚えている。
それは自分にとって流れていった時間という川の中で、浅瀬にたまたま引っかかっている木の葉のような存在である。
しかし私の中に、確かに存在する。
多分生き物には永遠に生きていたいという絶対叶えられない願望があり、人間にとってそれを具現化する一つの手段が「作品を作る」ということに通じるのであろう。
最近の自分は写真を撮っている。もちろん撮れない日もあるが出来るだけ撮るようにしている。
停滞期でありながら。
ある出来事が、そのように自分をシフトさせた。
その根源にあるのは確かに「伝えたい」とか「届け!」とかそういう一方的な思いだ。
そして誰かに何かを伝えたいと思った時、今の自分にとっての手法は写真なのだ。
全ての人にとって「作品を作る」ということは無意識でもそういう心の動きが働いているのではないだろうか。
まあ、ただ単に「作るのが楽しいから!」でも良いんですけどね。
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以上、黄色文字部分が他のブログ管理者の文章の転載でありました。
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